カテゴリ:懐かしき昭和の時代( 24 )
 ポパイ
 昭和30年代、我が家にテレビが来た頃毎回のように見ていた番組があり、このポパイもその一つでした。
 今の若い人たちには馴染が無いかも知れませんが、”オバQ”以前の放送では結構人気がありました。
 水夫のポパイはホウレン草を食べると怪力を発して敵をやっつけると言うストーリーで、1話が数分の短編物のアニメでした。
 ユーチューブで”ポパイ”で検索するか、”Popeye”と英語で検索するとたくさんの候補が出て来ます。
 暇があったらご覧になって下さい。
 年配の方にはとても懐かしく思い出されることでしょう。
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by sikisai02 | 2015-07-13 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 起こし飴
 富山市で作られた桜印飴と言うのが売られていたので買って来ました。
 今ではほとんど見ることが無くなった起こし飴です。
 昔は平たい缶に飴が流し入れてあり、金槌で叩いて割って舐めましたが、懐かしく思い出される方もいらっしゃるのではないでしょうか?
 麦芽を使った飴なので身体にも優しく、あまり甘過ぎない味が昔を偲ばせてくれます。
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by sikisai02 | 2014-06-01 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 ホッピーと鯨のベーコン
 期せずして懐かしき昭和の話題になってしまいましたが、
 今流行りのノンアルコール・ビールの元祖として”ホッピー”は知る人ぞ知る人気の飲物です。
 発売以来65年とか・・・息の長い商品ですね。
 ホッピーと焼酎を5:1で割るのが”通”の飲み方のようで私も時々真似しています。
 と、言うのも月曜日の夜BSで放送される”吉田類の酒場放浪記”に時々登場して美味しそうに飲まれているからです。
 この番組は居酒屋の美味しい肴とお酒がメインで時々変わった料理も出て来ます。

 なかなか居酒屋なんぞへは行けない私は家でチビチビやるしかないですが、
 今回肴に選んだのはくじらのベーコン、これも最近はとんと見かけなくなりました。
 折しも調査捕鯨禁止とか・・・益々「昭和は遠くなりにけり」ですね。
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by sikisai02 | 2014-05-01 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (秋の子供の遊び)
 秋に田んぼの刈り入れも終わるとその分遊び場も広くなります。
 そんな時期を待ってか、セスナ機がお店の開店広告などのビラ撒きにやって来ます。
 色こそ違え同じようなビラなのでたくさん拾っても仕方が無いのですが、子供の心情はやはり人よりたくさん集めたいもの、
 あちこちの田んぼを駈けずり周って運動靴を泥んこにしてまで何枚も拾ったものです。

 そんな広い田んぼは模型飛行機を飛ばすにも格好の場所、手作りの飛行機で友達と滞空時間を競いました。
 そしてこれまた手作りの竹とんぼや杉玉鉄砲、スズメ撃ちなど小刀1本で作れる簡単なものも大切な遊び道具でした。

 秋は実りの秋、芝栗は勿論、オニグルミ、バチリン、あけびなど山にはいくらでも木の実などが生ります。
 また土中のクロスズメバチの巣を獲る工夫も色々で、
 セルロイドを燃やして巣に入れ蜂を麻痺させている間に蜂の巣を獲ったこともありますが、
 何時もその代償に頭を数ヶ所刺されました。
 今ならキンカンでしょうけど、当時は小便でも塗っておけとのこと、出ない小便を無理して少量出して頭に・・・
 それでも時が来れば腫れも引いたので民間療法で大事には至りませんでした。
 そんな汚いことのお陰で当時は花粉症やアレルギーなどに掛かる人は少なかったように思います。
 今はその点、身体がきれいになり過ぎて免疫が無いのでしょうね。

 虫獲りとしては他に2~3回、同じく秋にイナゴを捕まえに行きました。
 手ぬぐいを袋状に縫って竹の筒を付けて獲ったイナゴを順次袋の中に入れます。
 後は湯を沸かしてそのまま茹でて甘辛に煮付けて甘露煮の出来上がりです。

 他には田んぼからタニシも採って来て泥を吐かせてから酢味噌で食べたりもしました。
 結構美味しかったことを覚えています。

 台風の後には近くの池が氾濫して逃げ出した鯉や鮒が水路を泳いで来ます。
 下流でザルを当てて待ち構えることも忘れていませんでした。
 どうやって食べたかは覚えていないのできっと近所の池にでも放したのでしょう。

 このように遊びで四季を楽しんだのですが、今の子供たちはそういった楽しみはまったく知らないようですね。
 私の家は放任主義では無かったのですが、あまり「勉強しろ!」と口うるさく言われなかったように思います。
 なのでそれを良いことに遊びに耽っていましたが、もし遊ぶことが出来ず勉強ばかりしていたら、
 もう少し賢い人間になっていたかも知れませんね。
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by sikisai02 | 2014-03-26 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (夏の子供の遊び)
 夏休みは子供が一番楽しみな時、1ヶ月も休みが続くので毎日が日曜状態でした。
 宿題は”夏の友”と他に自由研究などでしたが何時も終わりかけに一夜漬けで仕上げるタイプなので先ず最初は遊ぶことからです。

 朝はラジオ体操に始まり、午後は水浴びに友達と連れ立って行きました。
 小学生の頃は家の近くの川を堰き止めてもらい泳いだもですが、中学になると遠く宮川の赤岩まで行ったものです。

 赤岩は上赤岩と下赤岩があり、普通は上流の上赤岩へ・・・
 勿論更衣室などは無く、草むらで海水パンツに着替えますが、当時海水パンツを持っている子供は少なく、
 ベルトに手ぬぐいを使ったふんどしスタイルが多かったように思います。
 
 泳げない子供はガキ大将から泳ぎの手ほどきを受け、たちまち泳げるようになりました。
 当時のガキ大将は面倒見が良かったものです。

 単に泳ぐだけではつまらないので、飛び込みも・・・
 また、澄んだ水で川底まで透き通って見えるので、石を投げて潜り競って拾ったりしました。
 長時間泳いでいると皆唇が紫色になり、岩の上で甲羅干しです。

 また当時はヤス(魚を突く銛)も使うことを許されていたので、
 谷川へそのヤスを持って行き岩魚を突いたり、細竹の釣竿を使ってメリケン粉を練った餌でアブラメ(アブラハヤ)を釣ったり、
 手ぬぐいでメダカのようなチリンコ(アブラメの幼魚)を掬ったりするのが晴れた日の日課でした。

 また私の家の前には水のきれいな用水が流れており、
 洗濯用に堰き止める板を使って水溜りを作り、手作りのゴム動力の木の舟を浮かべて遊んだものです。 
 
 夏の夕暮れは遅く、暗くなるまで遊んで疲れて帰ると夕食の後は直ぐに眠くなります。
 そんな毎日も長いようで短く、夏休みの1ヶ月などあっと言う間に終わってしまいました。

 そうそう飛騨の七夕は8月7日なので、その頃は花火大会も催されます。
 今は宮川河畔で打ち上げられる花火もその頃は北山公園で上げられ、仕掛け花火も趣向を凝らした動きで楽しかったものです。
 翌日の朝は不発花火を探しに行くことも忘れないで、星と呼ばれる花火の小玉を持ち帰って遊んだものです。

 また時期には蛍狩りや肝試しなどに興じたこともあります。
 蛍狩りには団扇や竹箒に虫籠持参で田んぼの畦を歩いて籠にたくさんの蛍を閉じ込めて夜遅くまで眺めたものです。

 夏の一時期だけ町内の子供相撲があり、ちょうど家の裏が公民館で、そこの空き地に土俵が作られました。
 何日か続けて星取表の結果で賞品が頂けるのですが、私は弱かったのでしょう、貰った記憶がありません。

 夏の暑い日にやって来るアイスキャンディーやアイスボンボン売りも楽しみの一つです。
 アイスボンボンとは長さ15cm程のひょうたん型のゴム風船の中に凍らせたジュースが入っていて、
 先に穴を開けて吸出しながら飲む冷菓です。
 アイスクリーム売りも時々来ましたが高価なためなかなか買ってもらえませんでした。

 とにかく夏休みは遊ぶことがたくさんあって子供なりに毎日が充実していました。
 夏休みの自由研究は普通は昆虫採集で、ワイシャツの箱にたくさんの標本を集めたのも勿論です。 
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by sikisai02 | 2014-03-24 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (春の子供の遊び)
 春になると雪が融けて土手が顔を出します。
 待ち構えていたかのように芽吹く草、飛騨のひな祭りは4月3日ですが、その頃になると日当たりの良い所では浅葱(アサツキ)が見られます。
 それを摘んで雛壇に飾るのが女の子の家、我が家では早速にあさつき味噌(ほうば味噌のようなもの)を作り春を実感・・・
 ひな祭りはお菓子を持参で近所の家を回って雛様を見せてもらうのが男の子の行事です。
 それは持って行った菓子よりたくさんのお返しが目当てなのです(笑)

 植物ネタではまだあります。
 高山市の花は薄紫のコバノミツバツツジで城山にたくさん見られますがこれは食べられません。
 その後に咲く赤いヤマツツジ(通称二番ツツジ)は花弁が甘酢っぱくてツツジの細枝に何枚も重ねて刺して食べたものです。
 それはまるでみたらしだんごのような食べ方でした。

 また初夏に差し掛かった頃グミやクワイチゴなども季節の味として毎年食べました。
 僅かな小遣いで買うお菓子では子供の空腹は満たされません。
 その頃は食べられる物は何でも食べましたね~

 遊びでは竹を使って作った竹馬、また遠くの山まで水晶を採りにも行きました。
 向かいの山には石板が出る私にとっては秘密の場所があり、
 そこからも良く石を持ち帰って貯めていたので、これも親に叱られる種となったのですが・・・

 近所の空き地は何時も子供の溜まり場です。
 地面に大きな枡を描いての陣地取りやカッチン球(ビー球)、ケン(メンコ)、釘刺し、など・・・いくらでも遊びを思い付きました。

 春とは言っても飛騨の夜は寒く暗くなると早々に家に引き上げます。
 帰ると今度は家の中の遊びです。
 暗くなると乾電池で豆電球を点してみたり、夜光塗料のガイコツなんかを布団を被って見てみたり・・・
 また子供部屋に紙やダンボールなどで大きな船を造って近くの友達を呼んで夜遅くまではしゃいでいました。

 ちょっと変わったところでは、近所のお百姓さんの家では広い畑にジャガイモを植えてあり、
 収穫を手伝うと傷の付いたものや細かな芋を貰うことが出来ました。
 それを生で摺り、水で薄めて沈殿した澱粉を乾燥させて片栗粉として湯で溶いて食べたりしたのですが、
 小学校の低学年だった私たちはそんなことまでやっていたのです。
 別に学校で習ったことでは無かったのですが、とにかく甲斐性があったのです。

 ところで当時の子供の服装ですが、今のように豊富に私服を買って貰えないので多くは学生服のまま遊んでいました。
 昔は洟垂れ小僧が多く、その袖で鼻を拭うため袖口は洟で糊を張ったように輝いていましたよ(笑)
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by sikisai02 | 2014-03-22 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (冬の子供の遊び)
 今年の冬はブログ更新のネタ不足解消から”懐かしき昭和の時代”のカテゴリで色々書いて来ましたが、
 ようやく季節も春が見えて来たのでそろそろ終了しようかと思っています。
 最後に冬から春、夏、秋までの四季の遊びを4回に分けて載せて終わろうと思います。
 

 飛騨の冬は当たり前に雪が積もります。
 昔の積雪量は今から比べると多かったように思いますが、子供の背丈と比べるからでしょうか・・・
 それでも空き地の雪で充分にかまくらを作ることが出来たのでやはり多かったと思います。
 大人たちは町内単位で大きな雪像を造る”雪の芸術コンクール”なる行事も楽しんでいましたが、
 子供は専らかまくら作りで夜はその中で餅を焼いて食べるのが楽しみだったのです。

 正月休みが終わって3学期が始まると市内の小中学校では学校スキーがあります。 
 今は閉鎖されましたが原山スキー場が市内にありそこまでスキー板を担いで歩いて行ったものです。
 リフトはありましたが、ほとんど乗ることも無くゲレンデも歩いて登ったので1日に滑る本数も限られます。
 それでもそれがまた楽しみな行事でした。
 お昼には各自で持参した弁当を食べるのですが、ほとんどの子供の場合、餅を焼いて醤油を塗り海苔を巻いたいわゆる”付け焼き”です。
 腰に巻いたまま転んだりするので変形し、また寒さから硬くなっていましたがその美味しかったこと・・・

 雪のある生活は大変なのですが、子供はそれを楽しむ材料として使ったものです。
 みかんの木箱などを使って作ったそり遊び、スケートなどは高価でしたがそれでも簡単なスケートも買ってもらうことが出来たし、
 竹スキーや竹を割って作ったパンパン下駄なるものもありました。
 また私の家の裏は山になっていて、頂上から尻で滑って降りたりもしました。
 背中まで雪が入って親に叱られたものでしたが、それも楽しく思い出されます。

 夜間の家の中の遊びでは影絵、あぶり出し、墨流し等々・・・とにかく遊んだことしか覚えていません。 
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by sikisai02 | 2014-03-20 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (学校の行事色々・・・)
 小学校の時の行事を例に取って思い出してみましょう。
 遠足は年に2回、春と秋に行きました。
 春は遠足と言えども近くのことが多く、学校の直ぐ近くに有る城山公園なんて言うのが1年生の春だったと思います。
 秋は高学年になるにつれ遠くへバスで行くことになります。
 
 遠足と言えば弁当とおやつに話題が集まりますね~
 弁当は母の手作りの海苔巻きといなり寿司、つまりは助六のことが多く、それに普段は食べられないゆで卵付でした。
 またおにぎりの時は黒光りして味と食感の良い海苔を覚えていますから上等な海苔だったのでしょう。
 
 おやつ用に許された菓子は金額が決められていて、カルミンやドロップ、チューインガムなどが対象でした。
 果物はそれとは別で制限は無かったように覚えています。
 季節によっても違いますが、当時は貴重なバナナ、夏みかん、りんごなど、リュックには色々詰められていてお昼が楽しみでしたね。

 引率で行った場所は他にも映画館があります。
 特別に児童向けの映画が上映されると学校、学年単位で鑑賞に行ったものです。
 覚えているのは”にあんちゃん”や”怒りの孤島”、”南極探検の実話”、そうそう”宇宙大戦争”なるSFもありました。
 記憶に無いものを入れると結構たくさんの映画鑑賞があったのですね。

 秋になると決まって運動会です。
 今のように夏休みが終わると直ぐに開催されるのではなく、10月の体育の日前後ですから、結構朝晩は冷えます。
 運動足袋と言うのをご存知でしょうか?
 今ならスニーカーなのですが、当時はそんなものはありません。
 普通は”短靴”と言って粗末なゴム製の靴を履いていましたが、駆けっこには向きません。
 昔ならではの布製の運動用の足袋、それが運動足袋だったのです。

 帽子は紅白のもので、裏返せば赤にも白にもなります。
 どちらの組に入れられても便利に使えました。

 父兄が弁当を持って参観に来ますが、父兄用の出番もちゃんと用意されており、パン喰い競争のことが多かったですね。
 それと最後に何故か”仮装行列”も・・・
 運動と何の関係があるのでしょうね。
 今では考えられないような種目もあり、懐かしく思い出されます。

 運動会が終わると学校から紅白饅頭が配られ、それを持って帰宅しました。

 新年も元旦には特別の登校日があり、講堂で校長先生の訓示を聞かされました。
 朝、雑煮を食べて行ったのと、寒さから気分が悪くなり、倒れる友達も必ずと言って良いほど居ましたね。
 最近では元旦の登校なんて無いのではないでしょうか。

 桜の花が咲く頃になると決まって写生大会もありましたね。
 近くの公園で大きな画板に張った画用紙にクレパスを使って絵を描きます。
 桜なのでピンク一色の絵、それでも不思議と絵になっていました(笑)
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by sikisai02 | 2014-03-18 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (正月)
 正月は何時の時代も子供にとっては楽しいものですね。
 先ず学校は冬休みの最中なので勉強の心配無し、お年玉が貰えてそれで買い物が出来て、
 親も仕事が休みなので一緒に遊んでくれる。

 大晦日には年越しのご馳走を食べて、テレビの紅白を観る。
 ”行く年来る年”が終わった頃近くの神社に初詣、近所の人と新年の挨拶を交わす。
 家に帰って少しまどろむも配達される新聞の分厚さにその中でお年玉で何を買うか、お目当ての広告を探し読みそして年賀状に目を通す。
 全てが普通の日常とは違う正月です。

 お昼近くになると、決まってやって来る”三河万歳”、「♪~お目出度いではないか~」と流暢なお囃子で、お上がりを持って帰る。
 
 三河万歳は名の通り、愛知県の三河地方から飛騨へ”出稼ぎ?”にやって来る人たちです。
 万歳独特の衣装を着てはいますが、雪の時などは長靴の格好が可笑しくて・・・
 今は見かけませんが、昔はたくさんの人が町内を歩いていました。
 何分にも縁起物なので何処の家も最初は温かく迎えていますが、度重なって来ると「お断り・・・」の言葉が掛けられてしまいます。

 そして忘れてならないのが元旦の朝の雑煮、我が家ではこの朝だけは父が作りました。
 名古屋で修行していた父は名古屋風の雑煮で、上に乗せる花かつおは今だに私は癖になっています。

 元旦の夜だけは夜更かししていても怒られることは無く、双六や犬棒かるた、福笑いなどをして遊びました。
 2日になると親戚や近所の人が年始の挨拶にやって来ます。
 母がお酒の用意をして振舞うと、やがて花札なんかも始まります。
 何時までもそんな時間が続けば良いと、子供心に思ったものですが、
 その頃の子供の唄に「♪正月はええ(良い)~盆よりええ~」とありますが、まさに極楽を堪能した気持ちでした。
 
 
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by sikisai02 | 2014-03-16 00:03 | 懐かしき昭和の時代
 懐かしき昭和の時代 (木の家と藁の家)
 今回はまるで童話の”ブー・フー・ウー”のような題名ですが・・・

 私は小学生の頃の放課後はとにかく良く遊びました。
 学校から帰るなり近くの友達と連れ立って山へ野へと出かけたものです。

 山へ行けば登り易い比較的枝の多い木を選んで先ずは木登り・・・
 その頃から得意としておりましたので還暦過ぎの今でも木登りは平気です。
 モミの木に板や角材の切れ端を持って登って今で言うところの「ツリーハウス」なんかも作ったりしました。
 縄や釘などを使って子供なりに知恵を絞って小屋を完成させます。  
 また横に張り出した枝にロープを下げ、ターザンごっこも忘れません。
 
 そして秋になって脱穀した後の藁の束が田んぼに置かれるとそれを使って今度は藁の家造りです。
 その藁は農家の人が細かく切って田んぼに埋めて肥料とすることから、
 子供が遊んで束を壊しても何らお咎めが無く、それを良いことに背中が痒くなるまで夢中で藁と格闘しました。
 それでもさすが、板切れなどを忘れて帰ると怒られたものですが・・・
 秋の夕暮れは早く気温も下がって来ますが、不思議と藁の中にいると干草の匂いと共にポカポカ温かかったことを覚えています。
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by sikisai02 | 2014-03-14 00:03 | 懐かしき昭和の時代